電子書籍と紙の本

電子書籍は便利だが、紙の本には紙の本の良さがある、というようなことはよく目にするところである。これについては何か理由があるのだろうか。以下に、空間や時間軸の視点から考えてみたいと思う。

文字と空間

電子書籍と紙の本の違いを考えてみると、紙の本の情報は、物理的な空間に明確な位置を占めている。一方で電子書籍の情報はモニターに表示されるもので、物理空間における位置情報を持たない。この違いから紙の本および文字というものの特性が理解される。

活字情報、すなわち文字による情報というものは、人の認識において、その内容とともに、その文字がどこにあるかということが意味を成すのではないかということである。文字というものは在るものであり、それがどこにあるかを知っているということが、トータルでその情報を所有しているということになるのではないかと思う。

また、紙等による文字情報は空間的に散逸しているよりも、まとまりをもって構造化されているほうが、より有機的な文字の位置情報としての価値は高まるだろう。紙の本は情報の構造物であり、本の形式はこの構造にもとづいている。

電子書籍と紙の本の違いは、ある活字情報が空間の位置情報に紐づけられているかどうかの違いということになる。そして文字による情報とは、それがどこにあるかを把握することでその情報を自分自身のものとすることができるような、人にとって文字とはそのような空間的効用が期待されるメディアなのではないかということが、電子書籍と紙の本の比較から理解される。

紙の本と時間軸

本は、時間軸的構成を基調としている。始まりがあり、終わりがあって中間があるという線的時間軸の構成となっている。これは例えば、物語であっても、学術論文であっても、おおよそそのような構成となっている。

学術論文であっても、まず序があって、本題があって、最後にまとめ、総括があるというように“はじまった”という感じと“終わった”という感じが演出され、何かしら読み応えがあったという風に構成される。言わばこれは物語の構成であるといえるだろう。

そのように本の内容の形式は、線的な時間軸の構成となる。先に紙の本は情報の構造物であると書いたが、本の時間軸的構成は、本の構造の可能性に基づく。すなわち本というものの“かたち”に由来すると言える。

紙の本のどの辺が始まりの方で、どの辺が終わりの方で、どの辺が中間であるかは、瞬時に認識される。一ページ一ページめくって(それ自体が時を刻む機能性をもつ)読み進めることで、読み進んだ分量の概念が正確に直感される。今全体のどの辺を読んでいるかも空間的に瞬時に直感される。

紙の本を模した電子書籍の問題点

電子書籍は、紙の本の概念をそのままにモニター上に模倣し、再構成したものである。それによっていくらか不都合が生じる点がないわけではない。

まず、ページという概念があることで情報の位置感が把握しづらくなっている。現代の出版物において、巻子本が流通するということはないのだけれど、情報の位置感を把握するという意味では、巻物の形態の方が電子書籍としては分がある。要するに一般的なwebページのようにどんどんスクロールして読み進めていくスタイルの方が情報の位置感が把握されやすく、読みやすい。

電子書籍と紙の本との大きな違いは空間認識に関することがらであることは先に述べた。空間認識とさらに時間軸との相関で次のような問題が生じるだろう。即ち、紙の本なら、初めの方を読んでいるのと終わりの方を読んでいるのと、物理的な位置感の違いは明確に認識される。そしてなにより、読み進めるにしたがって物理的な位置感が漸進的に変化していくということが重要である。

電子書籍の場合、その時間軸的構成を読み進めるにしたがって、それに相関して物理的、空間的位置感が変化していくということがない。ページをめくってもめくっても物理的な位置感は一切変化しない。X軸の変化に対して本来想定されるY軸の変化が生じない。このことに対する耐性というものを人はどれほど持っているだろうか。読むスピードにもよるかもしれないが、この点はユーザー側にとってストレスとなる可能性がある。

コンピューター上の書籍とは

本は、時間軸的構成を基調としていると述べたけれども、興味深い例外がある。

ヴィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』は、いくつかのより重い命題と、それに対する注釈と、その注釈に対する注釈という階層構造によって構成されている。フォルダやディレクトリといったPCのファイルシステムのような構成。階層構造はコンピューター上で容易に表現できる構成法だろう。

情報の構造体として電子書籍という可能性がある現在、ある内容、分野に対して、線的な時間軸的構成というものが適切であるか、本当に必要であるか、見直してみるもよいのではないかと思う。

始まりがあって、中間があって、終わりがある、その構成は物語や戯曲にとっては必要なものだろう。様々な分野の書籍で、もし時間軸的構成が必要でないなら、電子書籍としてはその他の可能性が検討されてよいだろう。

情報量の多いブログなどは、投稿された時系列に沿って読んでいってもよいけれど、カテゴリやタグ等を参考に記事を選んで読むことが多いと思われる。

紙の本は、その物理的構造ゆえの時間軸形式なのであって、コンピューター上の書籍であれば、それに応じたスタイルがあってよいと思われる。

マンガと雑誌

先に紙の本を模した電子書籍の問題点をいくらか指摘したが、マンガと雑誌はやや例外的な位置にあるように思う。

先に文字と空間について述べたことは、映像の情報には当てはまらないように思われる。映像を見てそれが記憶されるというようなプロセスは、情報というよりは体験という概念に近いものかもしれない。だから映像の情報がどこにあるかと考えるのは、体験がどこにあるかと考えるようなもので、体験は記憶の中にあればよいと思うのである。

これに関連して、マンガは物語であることと、絵による表現を媒体としていることにより、紙の本を模した形態の電子書籍にあっても(物語としての時間軸をともなった)絵の情報がどこにあるかという位置感の把握はあまり問題とならない。電子書籍における情報の位置感の把握しづらさが弱点となりにくい分、紙の本を模した電子書籍のスタイルにいくらか適応している。

雑誌は、一般にその構成に統一的時間軸がないため、雑誌を読んでいて今全体のどの辺を読んでいるかと考えることがあまり意味を成さない。そのように情報の位置感の把握が比較的あまり問題となりにくい分、紙の本を模した電子書籍のスタイルにいくらか適応している。

電子書籍と紙の本

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